「戸籍謄本全部集めて」「お父さんをおんぶして2階まで来て」「口座情報は開示できない」…銀行に無理難題を押し付けられた森永卓郎(65)が陥った“相続地獄”

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実父が亡くなった後、銀行口座、証券口座を探し当て相続税を申告するまでの10カ月間。ここでは経済アナリスト・森永卓郎が父が亡くなった後、悲しむ間もなく相続申告を行わざるを得ない苦難の日々を描いた『 相続地獄 』より一部抜粋してお届けする(全2回の1回目/ 続き を読む)

申告期限の10カ月を過ぎると脱税で立件される可能性も……

父が亡くなってから、10カ月にわたって続く「相続地獄」第1章が始まった。遺産分割協議や相続税の申告は、死去から10カ月以内に完了しなければならないと法律で決まっている。10カ月というと「1年近くあるじゃないか」と思うかもしれないが、本当にあっという間だ。皮膚感覚では「一瞬」というくらいあっという間だった。

横着して申告期限の10カ月を超過すると、脱税で立件される可能性がある。私は「経済アナリスト」という肩書きでテレビやラジオに出演し、日本中で講演会をこなし、大学の教員も務めている。立場上、脱税で捕まれば職業生命に関わる。だから正直言って、とても焦った。

相続税を節税しようとは思わなかった。天から降ってきたようなお金だからだ。ただ、とにかく期限内に正確に申告しなければ、自分の身が危うくなる。そこで父の死去直後から、相続税について猛勉強を始めた。そして、なすべき仕事を片っ端からこなしていった。

不幸中の幸いと言おうか、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故によって、日本中に自粛ムードが漂っていた。講演会やイベントなどの予定は、軒並みキャンセルになった。

「この10年間でこんなにスケジュール表が空いていることはない」というほど暇だったおかげで、奇しくも相続対策に全力を傾注できた。もし父が亡くなったのが2011年でなければ、とてもあの膨大な作業を一人でこなすことは不可能だったと思う。

以下、私が取り組んでいった膨大な作業を、覚えている限り、ご紹介しよう。

「お父さんをおんぶして2階まで来て下さい」

まず最初に、某銀行の高田馬場支店にある父の貸金庫を開けに行った。

父が生きている間に一緒に銀行に出かけておいたおかげで、息子の私でも代理で貸金庫を開けられるように手続きは済んでいた。話は前後するが、この手続きの段階ですでに「相続地獄」の前夜は始まっていた。今思い返しても腹が立つ事件があったのだ。

半身不随になった父が、万が一のときのために、自分の貸金庫を私も開けられるようにしてくれると言った。「それも必要かな」と思って、銀行に聞くと、父と私と二人揃って銀行に出向いての手続きが必要だという。

仕方がないので、「要介護4」の父を自家用車に乗せ、銀行まで出かけた。車イスのまま乗せられる車ではないので、自動車への乗り降りだけで大わらわだ。

ようやく銀行にたどり着くと、「貸金庫の窓口は2階にあります」と言う。「じゃあエレベーターで上がります」と言うと「ウチの銀行にエレベーターはありません」と言うではないか。

「じゃあ、悪いんですけど貸金庫の担当の人が1階に下りてきてくださいよ」

「すみませんが、それはできません」

「えっ、どういう意味ですか」

「契約者であるお父さん本人が2階に来ていただかないことには、手続きはできません」

こんなものは嫌がらせにほかならないし、もっと言うと障碍者差別だとすら思う。目の前に車イスに乗った高齢の身体障碍者がいるというのに、「臨機応変」の「り」の字も見当たらない。いくら事情を説明しても言うことを聞いてもらえず、「とにかく2階に来てください」の一点張りだ。

仕方がないので、銀行員に手伝ってもらいながら私が父をおんぶして、妻が横から支えながら銀行の2階に連れていった。こうしてようやく私もカギをもらい、貸金庫を開けられるようになったのだ。

実はこれが、父の生前に私がやっておいた唯一の相続対策だった。この秘策によって起死回生を図るはずだったのだが、状況は暗転する。

父が亡くなって初めて目の当たりにした「軍人国債」

今でも悔やまれる。なぜあのとき、父と一緒に貸金庫の中身を確認しておかなかったのだろう。人生最大のミスに近い、あまりにも致命的なミスだった。

貸金庫というからには、キャッシュカードや通帳、印鑑や貴金属、保険証券や証書が入っていると誰もが想像する。ところが父の死後、高田馬場の銀行へ出かけて貸金庫を開けてみると、そこには金目のものはほとんど入っていなかったのだ。

貸金庫の中には、大学の卒業証書や思い出のパンフレットなど、金銭的価値がまったくないシロモノがぎっしり詰まっていた。唯一金目のものといえば、軍人国債が出てきたのは意外だった。私は現行の金融商品はだいたい知っているものの、軍人国債の現物はあのとき初めて見た。

特攻隊員だった父は、一度国のために命を捨てた身だ。だから自分が軍人だったことに強い誇りをもっていた。軍人国債には切符のような紙がついていて、それを切り取るとお金と交換してくれる。誇り高き軍人である父は、もったいないことにそれを切り取らずにずっと大事にもっていた。

軍人国債には有効期限がある。有効期限が切れたものもあったのだが、何十万円分か、まだ権利が残っているものがあった。

ちなみに、相続を申告するとき税理士に「この軍人国債も申告しなければ駄目なんですかね」と訊いたところ「とにかく金目のものは全部出してください」と言われた。だから、まだ引き換え期間の到来していない切符も含めて、すべて申告した。

貸金庫に預金通帳や不動産の権利書、証券会社の口座の残高明細書といったものが入っていれば、相続対策はほとんど一件落着の予定だった。ところが、貸金庫を開けた瞬間、「まずい。これは全然手がかりがないということだぞ……」と、明日から押し寄せる膨大な作業量を覚悟した。

果たして銀行口座と証券口座は一体何個ある?

母は専業主婦だったため、手持ちの資産はヘソクリ程度しかなかった。だから母が亡くなったあとの相続対策は、何の問題にもならなかった。基礎控除の額にはるかに届かなかったからだ。もちろん、私も母からの相続は一切受けていない。問題は父だ。

父が脳出血で倒れてから、高田馬場にある実家のマンションに、私は月に2~3回足を運んでいた。そうしないと、郵便受けから郵便物があふれてしまう。その状態を放っておくと、不用心で空き巣にねらわれやすい。

郵便受けに溜まった郵便物を紙袋に入れると、実家のカギを開けて部屋に入り、ボーンとそのへんに放り投げておいた。父が亡くなったとき、それらの郵便物が部屋で山のように積み重なっていた。

実家にこもってそれらの郵便物を一つずつ開けてみることにした。その気の遠くなるような作業を経て、銀行口座が9つ、証券会社の口座が2つあることがわかった。

今はルールが変わって、銀行の全店照会(全国に散らばる本支店の横断検索)ができるようになった。2011年当時は、全店照会を頼んでもやってもらえなかった。私が「そちらの銀行に父の口座はありますか」と訊いても教えてもらえない。「××支店に口座がありますか」とまで訊かなければ、口座があるかどうかは教えてもらえなかった。

日本の金融機関は、地方銀行や信用金庫、信用組合まで含めると、全国に500くらいはある。それらの金融機関に枝葉のように支店があるわけだ。1個1個しらみつぶしに、自力で全店照会するなんて物理的にできるわけがない。だから郵便物の手がかりなどを頼りに、故人がどこの金融機関と取引していたか当たりをつけなければいけなかったのだ。

「生まれてから死ぬまでの全ての居住地で戸籍謄本を貰って来て下さい」

口座がありそうなA銀行に相談しに行ったところ、担当者はこう言う。

「とにかくお父さんが生まれてから亡くなるまでのすべての居住地の役場から、戸籍謄本をもらってきてください。そして、相続人全員の同意書をもってきていただく必要があります」

相続人全員の同意書は、息子である私と弟の2人きりだから簡単だ。しかし、亡くなった父の銀行口座があるかどうか調べてもらうにあたり、なぜ過去のすべての居住地の戸籍謄本が必要なのだろう。銀行員は平然とこう言い放った。

「お父さんがどこかに隠し子を作っているかもしれないので、戸籍謄本が揃っていないと、銀行は相続人全員の同意があることを確認できないんです」

佐賀出身の父は、80年間の人生を通じて全国を飛び回っていた。「戸籍謄本を全部集めてきてください」と安易に言うが、毎日仕事をしている大人が、佐賀だの神戸だのにわざわざ出かけている暇なんてあるわけがない。それに旅費がいくらかかると思っているのだろう。仕方がないので、父が過去に暮らしていた自治体に電話をかけた。すると、「郵便小為替と返信用封筒を同封して、役場に申請書を出してください」と言う。腹立たしいことに、この申請書が全国統一フォーマットではない。だから自治体によって、いちいち別の文書を作成しなければならないのだ。

しかも郵便のやり取りだから、1週間以内に一つの作業が終了しない。こっちは次の作業がどんどん控えて焦っているのだが、相手は役人だからスピーディに動いてくれないのだ。

「文京区役所は空襲で焼けたので、戸籍はありません」

相続の申告期限は、死去から10カ月以内と決まっている。作業を少しでも早く進めるため、直接足を運べる役所には極力出かけることにした。最後の最後で壁にぶつかったのは、東京都の文京区役所だ。

父はかつて文京区で暮らしていたことがある。なのに「戸籍謄本をください」と言うと「お父さんの戸籍謄本はありませんよ」と言うのだ。

「でも、確かに文京区に戸籍があったはずですよ」

「それはそうなんですけど、文京区役所は空襲で焼けましたので、そのとき焼けた戸籍の書類は残っていません」

戦争で焼けてしまったのだから、書類を出せと言っても先方もどうしようもない。文京区役所の戸籍謄本だけ抜け落ちた状態で「全部揃いました」と言って銀行にもっていったところ、銀行員が何と言ったか。

「文京区役所の書類だけ欠けてるじゃないですか」

「空襲で文京区役所が焼けたせいで、書類が残っていないんです」

「ならば、文京区役所が空襲で戸籍謄本を焼失したという証明書を取ってきてください」

どこの役場に「戸籍謄本焼失証明」なんていう書式があるというのだろうか。

文京区役所の総合相談窓口を訪れた。当然、そんな手続きをしてくれる担当部署はない。

結局、何度も交渉を重ねた挙げ句に、ようやく似たような内容の文書を作ってくれることになった。

たった残高700円の口座のために……

たった一つの銀行口座を開示してもらうまでに、どれほど気の遠くなるような作業を繰り返したことか。今思い返してもゾッとする。

膨大な労力をつぎこんだ結果、父の口座が次々に明らかになっていった。父の言っていたとおり、全部で数千万円の預金が出てきた。ただ、それは合計金額で、なかには残高のほとんどない口座もあった。一番残高の少なかった銀行は、700円しかなかった。

「森永さん、この預金、どうしますか」

銀行員から訊かれた瞬間、パッと立ち上がって即答した。

「放棄します」

ふざけるのもいい加減にしてほしい。この銀行口座を開示してもらうまでに、私がどれだけ自分のお金と時間を投入したのか。たった700円しか残っていないのだったら、最初からコソッと「100円単位しか残っていないですよ」と耳打ちしてくれても良さそうなものだ。

結局、判明した父の銀行口座は9つあった。

ただ、私が探し当てることができなかった口座は、ほかにもあるのかもしれない。しかし、弟が遺品整理業者に依頼し、父の遺品は今では全部処分してしまったので、これ以上新しい口座が発見される可能性はゼロだ。

もし休眠口座から払い戻されなければおカネはどこに?

10年以上取引が行われていない口座を、銀行は休眠口座へと移行する。その総額は1200億円にのぼると言われる。口座の持ち主や遺族からの請求があれば払い戻すことが可能だが、現実に払い戻されるのは1200億円のうち500億円程度しかない。残りの700億円は、政府に納付されることになっている。見つけられなければ、事実上、相続税で100%もっていかれるのと同じことになるのだ。

今は金融庁や警察庁の締めつけが強くなったため、金融機関は新しい口座を簡単に開設してくれなくなった。振り込め詐欺が頻発するようになり、使っていない銀行口座が闇社会で売買されてしまうからだ。

昔は口座を作るのがすごく簡単だった。銀行員がノルマ達成のために「口座を作ってくださいよ」とやってきて、言われるがままに口座を開設してあげると、貯金箱などの景品をプレゼントしてくれた。父の実家にも銀行の貯金箱がたくさんあったので、おそらくつきあいで口座を開いてあげたのだろう。

父が元気だったころとは違って、今ではジャパンネット銀行や楽天銀行、ソニー銀行などネット銀行も活況を呈している。ネット銀行は口座を開設したあと、やたらと郵便物なんて送ってこない。取引の記録はネット上のログイン画面で完結する。

大和証券や丸三証券などの証券会社も、ネット上の手続きで口座を開設できる。紙の文化が残っていれば遺族の手がかりになるものの、ネットバンキングとなると遺族にとっては雲をつかむような話だ。今父が亡くなり、手がかりが何もない中であのときと同じ作業をしなければならないとすれば、実に空恐ろしい。

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